萩・山陽道のたび 3
13.5.2〜5.4


中の総門

中の総門は萩城三の丸の東側に当たる出入り口で、総門はこの他、北の総門

平安古の総門がある。 この門は中間にあることから中の総門と呼ばれ、三の丸の

表玄関で藩主が御成道を通じ城下町に出る門でもあるが、かなり風化している。


風化した堀内の武家屋敷



萩博物館への整備された道路




田中儀一の銅像 (萩博物館脇の公園)堀内





萩博物館の隅櫓(堀内)

博物館で昼となり、食事を済まし、見切れない萩の街に別れを告げ、午後は山口市へと

移動する。 これだけ江戸時代の屋敷を残した街は見られない尊い街であった。


山口への途中、武家屋敷長屋



同、白壁の大きな屋敷の道


山 口 市

山口へは萩往還を走り約40km一時間ほどで山口に入り、最初の観光ポイント常栄寺の案内標識

があり、道を右折して進むと寺があった。 こちらは臨済宗・東福寺派の寺院で1563年、毛利元就が

息子・隆元の急逝を悲しみ菩提を弔うために開山して創建された。隆元の死は正親町天皇にも伝わり、

勅額を与えられた。 関が原の戦いの後、毛利氏が長州に移封させられると、山口にあった国清寺

(大内盛見の菩提寺)を接収して常栄寺とした。 元々は大内氏が別荘を構え、画聖雪舟に庭を作庭さ

せていて、大内正弘が母の菩提を弔う為、寺とした所である。


常栄寺総門



雪舟像、

雪舟は子供のころ涙で鼠を描いたことで有名で、室町時代に活動した水墨画家である。 大内氏

に抱えられ雲谷庵を構え画を描き、その後、遣明船で中国に渡り、李在より中国の画法を学び、

日本独自の水墨画風を確立、現存する作品のうち6点が国宝に指定されている。


常栄寺・伽藍

この寺は雪舟作庭の庭が有名で、枯山水を用いた池泉回遊式庭園で、寺に面する南側以外の三方を

林で囲んだ小谷地に築造され、前に心字池、東北には枯滝が設けられている。 また、立石も雪舟

独特のもので室町時代の植木のない庭園である。 雪舟はこの庭を禅の思と絵画の技法を持って

造ったと言われ、日本庭園の名勝、史跡に指定されている。


雪舟作庭の史跡庭園

雪舟の庭園を見た後、山口と言えば、やはり瑠璃光寺の五重塔である。 こちらの庭園も

有名で9号線に出て少し走り、上竪小路の交差点を右折すると、間もなく、山懐に瑠璃光寺

が見える。 瑠璃光寺周辺一帯は香山公園と言われ、幕末に毛利敬親が茶事に事よせて

藩士と討幕の策を練ったといわれる露山堂や、薩長連合の志士が集った沈流亭、明治

以降の毛利家墓所などがある。 瑠璃光寺は何と言っても、大内文化の最高傑作と言わ

れる五重塔を中心に成り立ち、京都の醍醐寺、奈良の法隆寺と並び日本三名塔の一つに

数えられ国宝に指定されている。 大内氏全盛期の傑作である。


瑠璃光寺本堂と参道

瑠璃光寺は曹洞宗の寺で本尊は釈迦如来である。 室町時代、25代大内義弘は現在の場所に香積寺を建立し

たが、応仁の乱で足利義満と戦い戦死し、弟の26代盛見が兄の菩提を弔うため、香積寺に五重塔を建てかけたが

九州の少貳氏・大友氏との戦いで戦死し、五重塔はその後、1442年頃に完成する。 その後、関ヶ原の合戦で破れた

毛利輝元が萩入りし、香積寺を萩に引寺し、跡地に仁保から陶氏の瑠璃光寺を移築したのが現在の寺院である。


五重塔

この五重塔は裏山を借景に前には池を配し、見事な落ち着いた配置を見せて、五月の新緑が

赤茶けた檜皮葺の塔を引き立たせ、すっくと伸びた相輪の尖塔が天を指すと言う素晴らしい

眺めである。 この塔はやはり背景の位置取りの妙が美しさを造りだしている。

更に初夏のこの季節が大内文化の優雅を奏でている様である。


五重塔の高さは31.2メートル、各層軒が広く張出し、檜皮葺の屋根の勾配は緩く塔身は

上層ほど間を縮め、塔の胴を細く見せ、すっきりとさせている。









瑠璃光寺の五重塔に見惚れた後は次の防府市へと急ぐ。 防府市は、こちらから22km程で

毛利家の本邸がある。 国道9号線を少し戻り、262号線を真直ぐに下ると、防府天満宮の東隣

の多々良山・南麓に毛利本邸はあり、サツキ植木の道があり、それを進むと避雷針を載せた

総欅造りの豪壮な門がある。


毛利邸 表門

毛利本邸は25000坪の庭と1200坪の豪邸で、1916年に完成された公爵邸で、その規模と

材料は勿論、贅を凝らした造りは現存する私的建物では例を見ない屋敷である。 この建物は

明治に25年に井上馨により計画されたが、日清戦争・日露戦争の影響で着工が遅れ、大正に

なって、漸く完成したそうだ。 これだけのものは、やはり、明治新政府樹立への立役者であった

最後の長州藩主であったからこそ可能だったのであろう。 公爵と言う最高地位を持ち得て

為されたことで、体制側に立つ力はどの世でも同じのようだ。


毛利邸玄関車寄せ

この邸宅は公爵毛利家の本邸にふさわしく、構内には当主一家が居住する本館に、毛利家職員の

執務場所である用達所や彼等の役宅をはじめ、毛利家の始祖天穂日命、歴代当主を祀った祖霊社、

毛利元就以下の画像を配した絵画堂など宗教的な空間も設けられている。 また邸内には神代杉や

欅などの良材は勿論、鉄筋コンクリートやトタンなど当時最新鋭の建材も使われ、邸内の電力はすべて

自家発電でまかなわれ、湯殿には給湯施設が設けられている。 部屋は伝統的な和風建築と最新技術

 とを融合させた建築が為されていると言う。また完成直後の大正5年には大正天皇、11年には貞明皇后、

昭和22年には全国巡幸中の昭和天皇、同31年には昭和天皇・香淳皇后も宿泊していると言う。



本邸の一部




庭より本邸を望む。

内庭に入ると、本邸の東南中央に、満々たる水をたたえた瓢箪池があり、北には、自然林の小丘を活かして

山林風致を造り出している。林丘の周囲には遣水としての小渓谷をめぐらせ、一つは西から池に注ぐ飛瀑となり、

一つは東をめぐってせせらぎの音もゆかしく池にそそいでいる。池周辺の広庭は、自然を生かしながらも、石組

植栽・芝生・回遊路・石橋・東屋などを施して、池と林丘を調和させ、重量感のある、しかも幽玄の気分をあらわす

遊歩地を構成している。 地形の高低に落差がありこれだけ立体的な変化に富んだ庭はあまり見られない。

折からの初夏の太陽に明るく華やいだ素晴らしい庭園風景が見ることが出来た。 尚、本館は博物館と

なっているが、今回は時間の関係で割愛、次回の楽しみとする。

        
庭園より本邸を望む



瓢箪池に青鷺らしい?鳥が下りていた

毛利邸を出て、大急ぎで岩国へ、と言うのは連休の3日はNETで何処を当たっても山陽筋

で宿が取れず、岩国でやっと直接電話で割烹旅館が見つかった。 女将さんが都合をつけて

くれて、遅れるのも申し訳ないと思って、何とか時間までに入りたいと急ぐ次第である。 結局

時間に遅れ、途中で電話を入れると、女将さんが快く受け入れてくれる。 旅館は錦帯橋の鏡川

の支流の河畔にあった。 女将さんが迎えてくれ、割烹旅館らしく パリッと和服の仲居さんたち

が正装していた。 その仲居さんの一人に案内され部屋に。 ”慣れていないので、形だけでも”


と言って、宿帳と、貴重品袋を差し出し、”札束でもあればこちらえ入れてね” と軽い冗談を効かし、

客慣れしたそぶりを見せる。 仲居さんの話によると、旅館は岩国では老舗だそうで、”吉川さんが

島津さんと毛利さんを連れてこちらにみえた” と言うので、何んのことかと思いきや、吉川さんは

岩国の殿さんの末裔で、今は錦川木材の社長だと言う。 また、毛利は防府の殿様、島津は薩摩の

殿様の末裔と言う。 それで ”島津さんが一番美男子だった”と言う。 なるほど、この旅館は、

こういった客が、ぶらりと寄るところなんだと納得する。 もう創業百何十年だそうで、そういえば

調度品も古い謂れのあるものが多い。 床にも山口出身の山頭火の絵皿が飾ってあった。

よく見ると、「ここに おちつき草萌ゆる」 とあった。 夕食はひさしぶりの部屋食で仲居さん

のサービスで楽しく戴く。 ”今夜は花火大会があるので如何ですか” と仲居さんが、奨める

ので裏の川に出てみると、もう始まっている様だ。 仲居さんの言うように、寄付が集まらない

のか単発で景気が良くない。 それでも終わり頃には連発で上がって岩国の夜を楽しめた。


割烹旅館・油政




錦川の花火大会

翌朝も天気が良く、山陽道の旅行も、いよいよ最終日になった。 仲居さんの話によると、米軍の

岩国基地は川むこうだそうで、部屋から見ていると、葦の群生が見え、穏やかな光景であるが

直ぐ先にはオスプレイが何度も飛ぶのを見ていると言う。 どうしようもないので、と諦めの様子。


朝、部屋よりの眺め




旅館・食堂

今日は錦帯橋公園を見て、帰ることにする。 その前に、女将さんが、白蛇神社に行かれたら

と、奨めるので、寄ってみると、真新しい神社で、車を降りずに黙礼をして通過する。 

錦帯橋には10分程で着き、河川敷に車を留め、錦帯橋とロープウエー、岩国城のセットチケットを買い

錦帯橋を渡る。 この橋は5連のアーチからなる。 橋は全長193.3メートル、幅員5.0メートルで継手や

仕口といった組木の技法で造られている。 3代領主吉川広嘉は洪水に耐えられる橋を造るために

明の帰化僧である独立から杭州には6連のアーチ橋があることをきき、西湖にある堤に架かる橋から

ヒントを得て1673年に創建されたと言う。


5連の錦帯橋・



岩国城と錦帯橋

橋を渡ると、岩国藩三代藩主・吉川広嘉の像が建っている。 錦帯橋創建の偉業をたたえて建てられた

ものであるが、吉川家では二代藩主から十一代藩主までの肖像画が残されておらず、銅像は初代藩主と

子孫の肖像画と写真を合成して作られたと言う 。 その先へ行くと香川家長屋門がある。 白壁に腰壁

はしぶき板がはめられていて、岩国藩の家老香川家の表門で、1693年 に建てられ、岩国市の建造物

としては最も古いものと言われ、山口県の有形文化財に指定されている。


三代藩主・吉川広嘉像



香川家長屋門

長屋門の更に先に行くと、岩国美術館の傍に城へ上るロープウエーがあり、それに乗って頂上へ上ると

右手に天守閣が見える。 この城は初代藩主・吉川広家によって1608年に建てられた山城で、眼下を

流れる錦川が天然の外堀となった城山である。 標高約200メートルあり、三層四階の桃山風南蛮造りで

 あったが、築城後8年で一国一城制により取り壊された。 現在の天守は昭和に再建されたものである。


岩国城

天守閣からは城下町や錦川のうねり、錦帯橋から市内、岩国基地が霞んで見える。

天守閣には錦帯橋の精密模型やパネル写真、武具や甲冑などが展示されている。


城より見る錦帯橋

ロープウエーの下りた辺りは吉川氏の居館跡で1885年 に公園として開放された際、

吉香公園として整備され、その中の堀に面して建てられた錦雲閣 は岩国藩主吉川家

の旧藩時代の矢倉に似せて造られた絵馬堂である。 佐々木小次郎の銅像などもあり

これは吉川英治の小説・宮本武蔵では、周防国(岩国)の出身とされていることから

建てられたそうだ。


錦雲閣




岩国城を背にした佐々木小次郎

岩国を最後に、今回の萩と山陽道のたびも終わるが、振り返ると毛利氏の足跡をたどるたび

であった。 気の向くままに進めたがのがこの結果である。 廻るエリアが多く、見切れず

見残した所や、新しく見つけたところもあったりして、次の楽しみである。

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